平成24年の師走は、例年になく寒い月となった。今日も朝から雪が降っている。わが輩は、お気に入りの縁の下の庵にいることもできず、家の中のこたつの脇でわが輩用にあつらえられた座布団にまるでネコのように丸くなってうとうとしている。こんな所でも朝寝は楽しめるものだと、わが輩の適応力に感心していると、男あるじがわが輩の朝寝を妨げようと悪しき意図をもって2階から降りてきた。そして、またまた、平家物語の一節を朗読し始めた。
「その先祖を尋ぬれば、桓武天皇の皇子、一品式部卿葛原親王九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり」
 わが輩は、何のことかわからずにきょとんとしていると、
「これは平清盛がどのような素性、家柄の出であるかを述べている。桓武平氏、清和源氏というが、平氏は平安遷都をした桓武天皇の皇子が先祖で、その九代目にあたるといっている。因みに、源頼朝は清和天皇の皇子の子孫だそうだ」と話した。  わが輩イヌ族には、イヌの家系図なんてものはない。わが輩の親でさえ詳らかではないのだから、子孫を辿りようがないのだ。わが輩がここにこのように現に存在するということが大切なのだ。自分というもの、つまりアイデンティティを思うとき、わがルーツによってそれは左右されず、いまある我のみで十分と考えるからだ。わが親、わが祖がどのような生き方をしたのかは、わが輩の現在にとっては関係ないものなのでわが輩もとんと関心が無い。人間族は、なしてその祖に強い関心をもつのだろうか。きっと、親の七光りをあてにするからだろうな。この男あるじもそうかしらんと眼で問うと、そのことにはお構いなく、また朗読を始めた。
「『しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願得長寿院を造進して、三十三間の御堂をたて、一千一体の御仏を据ゑ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。勧賞には闕国を賜ふべき由仰せ下されける。折節但馬国のあきたりけるを賜びにけり。上皇御感のあまりに内の昇殿を許さる』。 清盛の父が昇殿を許され、武士から殿上人になったことから、平家物語の栄枯盛衰が始まる。天皇が日常の政務を行う清涼殿の殿上の間に昇れるようになったというわけだ。王家の番犬という位置から公卿になったのだから破格の出世だったらしい。これは、三十三間堂を建て一千一体の御仏を置いたことに対するご褒美だった。忠盛が建てた三十三間堂は焼失し、後に清盛が再建するが、これも焼失してしまい、京都駅の東側に現存するのは鎌倉時代に再建されたもので、いまでは国宝なのだ。それにしても平家の財力は桁外れのものだな。いまだ王家の犬とさげすまれていた当時に、このような財力を蓄えていたのだからな」
  わが輩は、三十三間堂だの一千一体の御仏だのと聞かされても、なんとも感じないが、しかし、現在の金勘定でも途方もない金子がかかったことはわかる。まあ、人間族、それも上級階級の自己満足だったのだ。きっと、庶民や庶犬は塗炭の苦しみを舐めていたに違いない。わが輩の先祖も、食うや食わずで痩せ細り、朝寝を楽しむどころか飢えを満たすべくねずみでも追いかけ回していたかも知れない。男あるじは、わが思いには無頓着に、「つまりだ、平家物語はこの忠盛の昇殿から物語は始まるのだ。それは天承元年、西暦では1131年、天皇は崇徳、上皇は鳥羽の時代だった。そして、平家物語の終わりは、壇ノ浦の入水から助けられた建礼門院徳子が寂光院で後白河法皇と再会し、恩讐を越えて来し方を回顧する場面である。文治2年、西暦1186年のことだった。天皇は後鳥羽で、この年、源平合戦で焼失した東大寺の大仏の開眼供養が行われたという」  わが輩は、いまから900年近くも前のことなど、どうでもよいのだが、しかし物語として聞くと、源平の覇権をかけた勇者達の戦いに胸躍り血が沸くような思いはある。わがイヌ族にもこれにまけない闘いがあったに違いないが、言葉という便利なものをもたないゆえに残されていないのは残念至極だ。この点については素直にわが輩は人間族に脱帽する。

「明けの空 氷結の明星 光輝する」 敬鬼

徒然随想

-平家物語 3